LOGIN理玖が寝息を立て始めたのを確認して、晴翔は部屋を出た。
仕事部屋の方に戻り、自分のデスクの椅子に腰を下ろす。
「すぅぅ、……はぁぁぁ」
大きく息を吸って、長く吐いた。
(なんだ、あの可愛い生き物は。ギャップ萌えって理玖さんのための言葉かな。理性飛ばなかった俺、偉すぎるだろ)
椅子の背もたれに首を預けて、晴翔は呻った。
今日は理玖のフェロモンがいつもより弱かった。というより緩やかだった。だから耐えられたが、ピアスは連打した。
(薬はめちゃめちゃ使ったけど、理玖さんのフェロモン、前と感じ方が変わった気がする。今日は放出が少なかったのかな)
穏やかに増えてくれたお陰で、少しは側に居られたし、触れられた。
とはいえ、あれが限界だ。
(好きな人にベッドの上で喰っていいとか言われたら、otherじゃなくても耐えられないと思う)
どさくさに紛れて額にキスして唇に触れてしまった。
ぷっくりした柔らかな唇のせいで、危うく理性が飛ぶところだった。
思い返すだけでも、もだえる。
冷静になろうと、もう一度深呼吸した。
晴翔は佐藤に怯えていた理玖を思い返した。
(あの怯えようは、普通じゃない。耳元で何か囁かれていたようだったけど。知り合いか? それとも、脅すような言葉を?)
理玖がrulerだという噂につられて、犯罪集団のotherが接触を図ってきたのだろうか。
佐藤が犯罪集団の一員なら、折笠も関係者なのだろう。
(折笠准教授のあの顔、理玖さんの反応を確認しているような、楽しんでいるような表情だった。佐藤を助手で呼んだのは折笠だし、無関係じゃないんだろうな)
起き上がった臥龍岡が腰を動かして晴翔の股間に自分の股間を押し当てた。「あーぁ、バレちゃいましたね。まさか向井先生ではなく空咲さんに指摘されるとは思いませんでした」 臥龍岡が、いともあっさり誤魔化しもせず白状した。「昼間、鈴木君に興奮剤を持たせて俺を襲わせれば、話は早かったと思いますが。何故、そうしなかったんですか」 洗脳が使える鈴木を使えば早かったはずだ。 わざわざあんな手の込んだ真似をしてまで晴翔を呼び出すのは、二度手間だしリスキーだ。「空咲さんを洗脳しても、無意味だからです。空咲さんには空咲さんのまま、向井先生の隣にいてもらわないと、困ります」 臥龍岡が晴翔の唇に指を押し当てた。「昼間の演出は栗花落礼音の心を折るためでもありましたけど。それ以上に、空咲さんの心を乱す為です。正義感の強い空咲さんは圭のやり方に怒りを覚えたでしょう? 今宵の誘いには絶対に乗ってくれるだろうし、怒りで心を乱したまま、私に会いに来てくれる。交渉を有利に進めるための前座です」 まんまと臥龍岡の戦略にハマったのだなと思った。 実際、晴翔はその通りの心境でこの場所に来た。 そう気が付いても、先程までの怒りも焦りも込み上げてこなかった。「話しているうちに空咲さんが冷静になっちゃったので、切り替えたつもりでしたけど。空咲さんて、向井先生相手じゃないと勃起しないんですか? それとも、フェロモン感じないと勃たないんですか?」 臥龍岡が晴翔の上で腰を振る。 気持ちいいが、欲情しない。「知りませんよ。少なくとも、貴方相手では無理みたいです」 自分でも正直、ビックリしている。 股間が驚くほど反応しない。
コーヒーを煽る晴翔を、臥龍岡が笑んで眺めた。「そのコーヒーに興奮剤が混ざっていたら、spouseの空咲さんでも興奮して、私を押し倒したくなりますよ。ベッドが役に立ってしまいますね」 臥龍岡が楽しそうな顔を向ける。 それは既に白石凌の襲撃で経験済みだ。「薬で興奮すれば、それが導入剤になって私のフェロモンも効果が出ますね。私のフェロモンは特殊なので、たっぷり気持ち善くなれる代わりに私の言葉を疑わない程、私を好きになれる媚薬です」 媚薬、という表現は言い得て妙だと思った。「佐藤さんも、そんな風に取り込んだんですか」 コーヒーカップを持ったまま、晴翔は問い掛けた。 臥龍岡の表情が一瞬、止まった気がした。「どうでしょう。個人的に従順なお人形より、嫌がりながら私の体にハマって沼る殿方を愛でるのが好きなので。空咲さんが、そんな風に私にハマってくれたら楽しいですね」 何とも良い性格をしている。 意外だとも思わない所が余計に臥龍岡の性格のヤバさを感じる。(理玖さんの推理だと、臥龍岡は佐藤さんに自分の特殊なフェロモンを使用していない。それどころか、積木君や秋風君にフェロモンを使っているのは鈴木圭が主だ。何故だろう) 十年前の時点で、花園叶は特殊なフェロモンを佐藤に使用している。 感情を上塗りされて叶を愛した佐藤は、spouse実験に巻き込まれた。 折笠が逃がしてくれなければ、spouseになっていたかもしれない。 ある可能性に気が付いて、晴翔はもう一口、コーヒーを含んだ。「試してみますか? 俺が貴方にハマるかどうか」 もう一口、コーヒーを
鈴木圭と同じ顔で同じ仕草で、臥龍岡叶大が笑む。 不気味な空気を感じながら、晴翔は息を飲んだ。(Spyri`s noteが佐藤さんが隠したUSBから見つかった以上、RoseHouseが持っていたのは明らかだ。ドイツの、理玖さんの曾お爺さんの研究室から持ってきたのは、間違いない) 譲り受けたのか盗んだのかは知れないが、安倍晴子が持ち帰ったのだろう。 RoseHouseで行われているWOを確実に生み出す手法は、Spyri`s noteを下敷きにしている可能性が高いと理玖は話していた。 安倍晴子の息子であり薔薇の園に長く従事していた臥龍岡が、Spyri`s noteの存在や内容を知っていても不思議ではない。(noteの中では、結果としてレイノルド・シュピリはクローン実験に一度も成功していない。臥龍岡が理玖さんの事実を知るはずはない) 遊ぶような目で晴翔を眺めていた臥龍岡が、口を開いた。「向井理玖はonlyの中でも特別なruler、だからこそ孤高の天才足り得る。WOに関わる人間なら一度は聞く、界隈の有名な噂です。Sky総研副社長の空咲さんなら、御存じですよね」 晴翔は頷いた。今更、晴翔の肩書を臥龍岡が知っていようと驚かない。 噂についても同じだ。その真意を確かめるために、晴翔は慶愛大に理玖に会いに来た。「向井先生はrulerだから天才なわけじゃない。rulerも天才も生まれる前から約束されていた。そんな風に作られた人間なんです」 ドクリ、と心臓が下がって鼓動が徐々に速さを増した。(やっぱり知ってる。理玖さんの真実を、臥龍岡は掴んでる)「どうして、臥龍岡先生がその話を知っているんですか。それを聞いて、俺が信じると思うんですか?」 臥
約束の夜、二十一時五十分。 晴翔は一人、プルマンリッドホテルのフロアにいた。(本当に理玖さんにも國好さんにも内緒で出てきちゃったな) Sky総研のSPは一人、同行させているが、念のため一キロ圏内まで離れている。 晴翔はエレベーターに乗り込み、最上階へと向かった。 ピアスの抑制剤を確認しつつ、一番上の小さなピアスに触れる。 今日の帰り際に理玖がくれたピアスだった。『前から渡そうと思ってたんだけど、タイミングがなくて。その……御守りみたいなもの』 そう言って目を逸らす理玖は、いつもより可愛かった。(毎日、一緒にいるのに渡すタイミング失い続けてる理玖さん、可愛い。理玖さんが俺のために選んでくれたピアスとか、速攻で付けるに決まってる) 指でスリスリ撫でながら、エレベーターを降りる。 ピアスに勇気をもらって、晴翔は1503号室の部屋の前に立った。 一度、大きく深呼吸して部屋のベルを鳴らす。すぐに扉が開いて臥龍岡叶大が顔を出した。「お待ちしていました。中へどうぞ」 にこやかに出迎えて、中へと誘われる。 広い部屋の奥には大きな窓が広がる。ぼんやりした夜景が壁にかかる絵画のようだった。「時間通りですね。真面目な空咲君らしい」 臥龍岡がシャンパンの瓶を持ち挙げた。「如何です?」「車なので、遠慮します」「それは、残念。カフェインレスのコーヒーにでもしておきますか」 想定していたように、ドリップコーヒーを取り出した。 二人掛けのソファを手で勧められ、とりあえず腰を下ろした。
「二人には他にも、栗花落さんを守ってもらう仕事があります。彼にはRISEに潜入捜査してもらいますから」 國好が、あからさまに顔を顰めた。「理玖さん、流石にそれは酷すぎます。あの状態の栗花落さんをRISEに行かせるなんて」 鈴木のフェロモンに犯されて意に反した決断をしていた栗花落を、國好の名を呼んでいた栗花落を、理玖は見ていない。 あの姿を見たら、そんな提案はできないはずだ。「恐らく、正気を戻した栗花落さんは自分からRISEに行くでしょう。退職届を出してね。僕は栗花落さんを失う気はない。今の彼が出来得る仕事を宛がうべきです。RISEへの違和感のない潜入は、今の彼にしかできません」 理玖は國好を見詰めた。 國好の顔に戸惑いが浮いている。「しかし、鈴木のフェロモンで正気を失えば、臥龍岡の操り人形になりかねません」「それも込みです。RISEには佐藤さんがいます。本気の犯罪に栗花落さんを巻き込みはしません」 國好の顔から、否定の色が消えた。「恐らく、RISEでの栗花落さんの扱いは人質止まりです。臥龍岡先生が栗花落さんを連れ戻したい本当の理由は、彼の口から実体験が語られることの阻止。リアルな現実をこれ以上、僕らに知られないために、栗花落さんに自分の意志でRoseHouseに恭順させたいんです」 晴翔は、鈴木とのさっきのやり取りを思い出していた。(栗花落さんを通して理玖さんに、ある程度の情報を得させようとしたけど、思った以上に栗花落さんが突っ込んだ事実を知っていて、それを理玖さんに話してしまったから。これ以上は放置できないと考えたのか) 秋風から栗花落礼音の存在を聞いて調べるのは臥龍岡にとっては簡単だ。 晴翔を呼び出す前に、栗花落をレイ
「小林君のスパイ活動のお陰で、色々知れて助かったよ。恐らく秋風君は今も鈴木君のフェロモンで夢の中だ。そうなると予想していたから、昨日のうちに小林君に助けを求めた。小林君が蘆屋先生にヘルプするとも予想していたでしょうね」 小林が満足そうに得意げな顔をした。 理玖の目が蘆屋に向く。「折笠先生なら、どうすると思いますか?」 理玖の問いかけに、蘆屋が頭を掻いた。「放ってはおかないだろ。折笠にとって臥龍岡先生も圭も大事な愛人だ。薔薇の園の呪いを解くために自殺したのに、これじゃ死に損だからね。まだ死んでないけど」「どういう意味です?」 眉間に皺が寄ったのに、自分でもわかった。「RoseHouseやマザーの教えっていう呪縛を解いてあげたかったんだってさ。孤児とはいえ施設の子供に人殺しさせようとする躾が正しいわけないだろ。だから死んで、わからせてやろうと思う、とか言ってね。いつもの冗談だと思って聞き流したけど、まさか本気だったとは俺も思わなかったよ」 蘆屋の話し方は怠そうだが、表情が悲痛で、晴翔は息を飲んだ。(臥龍岡先生や鈴木君が安倍忠行のクローンだってことも、RoseHouseの実態も、蘆屋先生は知らないんだ。だから孤児って思ってる。いくら友人でも、流石にそこまでは話さないか) 本人たちが間接的な協力者といっているくらいだ。 核心に迫る話はしなかったのだろう。(安倍晴子は自分の子に人殺しをさせようとした。事実はさらに重い) 頼りにしていた大事な人を失っても、臥龍岡は止まらなかった。 目は醒めていないのだろう。 蘆屋がこうして動き出したのも、聞き流してしまった自責なのかもしれない。